大江健三郎「晩年様式集 イン・レイト・スタイル」

 昨年の秋に出され、書店で割合早く買ったのだが、全然読むヒマがなく、遅ればせながらようやく年を明けた2月中旬になって読み終えた。ノーベル賞を受けた大江さんは、人生の着地点としての晩年の生き方を探求しており、「最後の小説」あるいは「後期の仕事(レイト・ワーク)」という言葉も読者にはお馴染みのものとなっている。尊敬する武満徹の死や義兄で高校時代の友人、伊丹十三監督の死、親交の深かった批評家E.サイードの死を受けて、本作を含め8つの長編を書きつないできた。
 今回は、東日本大震災福島第一原発事故を背景に、家族関係の修復や過去との対話、そして反原発や50年後、100年後の世界への絶望とか、いつもようにあまりわかりやくない、読みづらい文体で綴られている。老境に入った作家の青年時代のパトロンであった「ギー兄さん」。この息子で作家の過去との対決をプロモートするインタビュアーの「ギー・ジュニア」。たぶんこうした人物は虚構だと思うが、彼らに作家の想像力は託され、物語が進む。「ギー兄さん」が登場する長編『懐かしい年への手紙』が何度も引用され、非業の死にまつわる真相と作家の関わりが追求される。この構図は、伊丹をモデルにした「吾良」の死にも向けられ、その真相は「自殺ではない」と主張する。
 東日本大震災原発事故の悲惨さがリアルに感じられないとの評価も読んだが、それは80近い老作家に求めても無理というものだろう。現地に行って見聞しなければわからないことは多い。反原発のデモに参加し、騒音にやられ、一家で四国の森のヘリに「疎開」する作家と現場の悲惨は遠い。
 とはいえ、事故との距離が遠い人が多い中で「私は生き直すことはできない しかし 私らは生き直すことができる」と語り、後の世代を含めた「生き直し」を語る作家の心情はわかる。
 文芸誌『新潮』2013年12月号に大江健三郎氏のロングインタビューがあり、読売新聞編集委員の尾崎真理子が聞き手になって心境を語らせている。私は、その前に掲載されていた大竹昭子の「宙吊り」という小説の方が気になってそっちをまず読んでから、大江の話に耳を傾けた。話せばわかる、ではないが、意外とすんなり頭に入った。というかすっと抜けていった。大江の真意は小難しい小説を通じてではないと、頭に残らないらしい。聞き手の尾崎さんは、頭が良すぎる。もっと突っかかって大江先生がいらいらするくらいがいい。
 3.11以来、生活の中で変わった最大のことは、NHK朝日新聞を含め、既成のメディアでは、自分の身は守れないという事実である。この衝撃は今でも忘れられない。本当に危険なこと(濃度の高い放射性物質が空から降ってくるとか)はテレビや新聞は教えてくれない。私はあの後、1か月くらいはネットの情報から目が離せなくなった。あと追いの番組や言い訳の報道本をいくら出しても、民主党政権の幹部と国家官僚、そして大手メディアの「戦犯」ぶりは決して忘れてはならないと思った。大江さんはそういう感覚をどう思っているのだろうか。ずっとテレビやラジオを見たり、聞いたりし続けるだけでは、リアルな現実を感じられない現代の構造にどう対処しているのだろうか、少し気になった。