2018 今年読んだ小説ベスト3

 小説は起伏が激しく、年によって読まない。2018年がそれ。びっくりするほど読んでいない。買っても読まない本も多い。どうしてか?

【候補】
1『死の谷を行く』桐野夏生
2『シミュラクラ[新訳版](ハヤカワ文庫)』P.K.ディック/山田和子
3『オールド・テロリスト』村上龍
4『それまでの明日』原 籙
5『文章教室』金井美恵子
6第158回(2017年下半期)芥川賞受賞作品(文藝春秋2018年3月号)
百年泥石井遊佳と、『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

 ベスト3は次の3冊でした。内容は人文系よりも覚えているので、小説を読むのは楽しいが、進まないという実態です。
 「文章教室」は、田舎の書棚の残っていた本の1冊で、尊敬する金井センセイの小説を読み、改めて感心したのでした。
 2017年下半期芥川受賞作品は充実していた。特に「おらおらでひとりいぐも」は、話題性抜群で、単行本もたくさん売れた。超高齢化社会にふさわしく74歳の夫に先立たれた女性がチャレンジする冒険の日々が新鮮だった。
 「死の谷を行く」は、元連合赤軍の女性兵士が主人公で、「山に入った」女たちの思い、彼女たちが生きる日常と、現在も背負う過去の重さを描く。

1.『文章教室』金井美恵子(1985/01/25福武書店

 この小説は、著者の新境地を開く小説として福武書店が出していた文芸誌『海燕』に1983年に断続的に連載され、1985年に出版された。不倫関係を軸に現役小説家がどのように作品を生み出していくか、有閑マダムを顧客とした文章教室をからめ、それぞれの登場人物の赤裸々な意識が描かれる一種のメタ小説としての恋愛小説が展開される。
 文中には、フランス文学者を近づけてはダメですよという警告もあり、強烈な文壇への批判が込められている。また、無数の「引用」が散りばめられ、ポストモダンの知識をひけらかす文化エリートへの反発も強烈だ。お高くとまる人々だって、やってることは下世話な恋愛遊戯であり、テーマは結婚とか離婚とか極めて打算に満ちたものに他ならないというのが金井の「批評」なのだろう。
 たくさんの文化的な意匠や記号が頭をもたげ、教養小説の形をとりながら、すべてがキッチュに流されて、しかも通俗的な色恋、セックスを交えた、純愛あるいは無知と表裏一体の愛をカオスのようにぶちまける。
 若い娘に捨てられ、絶望を感じた現役小説家は『告白』という長編小説をものにして世に問うが、思っていたほどの反響は得られない。しかし、文壇的な成功を収める。文章教室に通っていた人妻は、不倫相手から別れを告げられ、今度は小説に挑戦しようと意欲を燃やす。
 結婚を迫られた若い大学の研究者は、来日した英国人の恋人から最後通牒を突きつけられ、結婚を迫ってきた可愛い女の妊娠によって絡め取られる。恋の季節が終われば、すべて収まるところに収まって、それぞれが成長し、人生の新たな意義を悟るというのが通俗恋愛小説の正しい発展らしい。
 金井は、シニカルに突き放すだけでなく、そういう家庭をめぐる人間関係の不条理、フォニーとしか言いようのない、くだらなさをユーモラスかつリアルに描き、読む者を飽きさせない。それは一種の週刊誌的なスキャンダルの愉しみにも通じる。
 文芸誌連載時にはもちろん読んだ記憶がなく、35年も経って初めて通読したが、小難しい理屈も多いのに、たいへん面白く、躓くことなく読めた。
 帯にはこうある。
「佐藤氏一家」親娘三人のそれぞれの恋愛と文章教室の講師である「現役作家」の恋愛を、現代の風俗と知的ファッションの最尖端で躍動させた華麗な挑発!
だが戦闘的長編小説
 菅野昭正の東京新聞文芸時評
 当世の尖端的な知的風俗を適度にあしらったり、ものを書く効果についてときおり言及したりしながら、現代生活の表層を切りとってみせた小説である。(中略)どこにでもありそうな情事やカタログ的な恋愛が、意外にいきいきした色彩を帯びているように見えるのは、鋭い諷刺のまなざしを通して見られているからである。それに、恋にあこがれる気持ちを「文章化」する主婦のうしろに、古典的大小説のヒロインの影を重ねるとか、流行に遅れまいとして右顧左眄する「現役作家」の戯画性など、さまざまな仕掛けを通して、乾いた明るさがただよっているのも忘れるべきではない。
 菅野センセイはもちろん東大出のフランス文学者です。

2.『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子(河出書房新社石井遊佳百年泥』(2018/1/24新潮社)


 第158回(2017年下半期)芥川賞は、久々に女性作家によるダブル受賞が話題になって気になっていたが、つい買いそびれ、図書館から借りることに…。石井遊佳さん(54歳)と若竹千佐子さん(63歳)はいずれもヤングではなく、りっぱな女性としてのキャリアを積んだ作者が織りなす二様の物語は、豊饒な小説がもつ固有の楽しさを与えてくれる。芥川賞という話題性ばかり選考する
文学イベントの表層を裏切る、濃厚な世界が開けてくる。小説は正直で読めば誰にもわかることを改めて感じた。
 石井遊佳さんの『百年泥』は想像力をかき立てる快作。
 インドの北部で百年に一度の洪水に遭い、川が氾濫し町中が水浸し。あらゆる日常が麻痺し、泥の中からすでにこの世にいない人々を含め、次々に現れ、夢と現実の境目のない世界が立ちこめる。そこで見たり、聞いたり、触れたりする者は百年の及ぶ切れ目のない記憶であり、主人公はそれを受け入れ、精神の交流を楽しむ。
 面白い小説であり、幻想がより一層のリアルを醸し出す。そういう物語を構想できる著者の小説家としての才能に快い感心を抱いた。
 若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、老人をめぐる社会の偏見に文学の力で反撃する。
 作品は、夫を亡くし一人暮らしの老人が東北弁で繰り広げるモノローグ。東北弁のリズムに促されて、どんどん突き進んでいく。どこに行くのかわからない冒険の日々。新しい世界に向かう主人公の自由な精神の横溢に共感する。夫の先立たれた寂しい気持ちに停滞しない勇気と発見に励まされ、孤独の持つ無限の可能性に驚かされる。
 まさに老いは怖いものではなく、新しい飛翔へのプロローグに他ならず、人生の冒険に終わりがないことの真実がここに高らかに宣言された。

3.『死の谷を行く』桐野夏生(2017/03/30文藝春秋

 当事者の回想や記録をはじめ、思想的な総括や評論、小説や映画、演劇、エログロナンセンスなスキャンダル・ジャーナリズムまで数多くのネタになってきた連合赤軍事件。著者は、子供を産む性である女性性、母性の観点から元女性兵士の内面を描き、そしてある意味「山に入った」女たちの願いと痛切な思いを肯定的に描く。
 最後の劇的な親子の対面のシーンで、なぜ元赤軍女性兵士が子供を捨て、孤独に生きてきたのかが明かされる。
 ちょっとネタバレになってしまうのは、著者のラストに持って行く盛り上がりのお膳立てがすばらしく、それに触れないと本当にこの小説の肯定の意味がわからなくなってしまうからだ。
 主人公の西田啓子は本名こそ変えていないが、下部兵士として事件後、5年間の刑期を終え、学習塾の先生として密やかな生活を続ける。彼女の隠遁が乱されるのは、仲間からの一本の電話だが、その背景には事件から40年が経過し、獄中の最高指導者・永田が死に、東日本大震災など否応もない外の変化が彼女に押し寄せてきたせいでもある。ここに当事者ではない多くの人々の日常と交差する人生の揺らぎが浮かび上がる。