2023小説・人文ベスト3

 2023年は本格的にコロナ禍が明け、何もかにもぱっと暗雲が開かれると思いきや、ウイルスの変異は止むことがなく、インフルエンザが蔓延する。円高が急激に進み、消費は低迷しながらも株価だけは高いという経済が続いた。小説・人文の世界も過渡期、転形期を迎えている。

 

【小説ベスト3】

①『ハンチバック』市川沙央(文藝春秋

 先天性の遺伝子疾患ミオチュブラー・ミオパチーによる重度の障害をもつ作家が放つ強烈な異議申し立て。溢れ出る言葉の爆発はタブーなしで語るホンネの社会批評であり、風俗批評となっている。

 自身が主人公であるような井沢彩華=アカウント紗花=バンドルネームBuddhatとして風俗ライターとして小遣いを稼ぎ、すべて寄付している。両親が残した資産が億単位であるが、子供を「妊娠して堕ろしたい」と健常な女の子の背中を頭の中で追っている。著者は14歳で人工呼吸器を付けられ、以来「涅槃」で生きてきた。障害者による自己表出であり、開かれた穴にフタはできない。

 この小説を読んで、驚いたのは著者のボキャブラリーの豊かさである。例えば、取材をしないで書くコタツ記事、助成対象のセックスワーカーであるセラピー、障害者のリプロダクティブ・ヘルツ&ライツ(性や身体の自己決定権)とか、もちろん表題の「ハンチバック=せむし」と、小説読んで勉強になった。

 もう一つは、健常者の読書好きの紙の本への執着が、筋力を失い、体の不自由を抱える人たちには出版業界の「健常者優位主義」でしかないこと。もっと電子出版を普及させなければならない。

 2023/09/01、『文藝春秋』2023年9月特別号掲載、A5・36ページ、1200円(定価)。

 

 

②『特捜部Q 檻の中の女』ユッシ・エーズラ・オールスン/吉田奈保子(早川書房

 デンマークが生んだ世界的ヒットミステリ。警察小説シリーズとしても有名で、何作かは映画化もされた。

 この「檻の中の女」は特捜部Qの第1作で、同僚が犠牲になった事件の後遺症で左遷されたカール・マーク警部補がシリア人の変人アサドを助手に、迷宮入り事件ばかり追う特捜部Qを任させる。

 最初にひっかかった事件が5年前にフェリーから失踪、溺死したとみられた有力女性議員ミレーデの探索だった。苦労の末、当時の杜撰な捜査が明らかになり、寝たきりになった元同僚のハーディーの助けも借りて2人は真相に迫っていく。減圧室に5年も閉じ込められ、瀕死のミレーデに行き着くシーンは圧巻で、次回作への期待も募っていく。

 本シリーズは9編が発表され、世界40カ国で2,400万部以上が売れたという。映画化も5作とまさに「ミレニアム」とともに北欧ミステリブームの主軸を担った。

 本作は映画第1作の原作として、最もよく知られる作品で、子供時代に出会った同じ交通事故の犠牲者が犯人となって、美しい女性に成長した相手方の娘を襲い、残忍な手口で監禁し、殺そうとする。その憎しみの深さに絶望する。

 全体に冷たい社会の空気が作品を覆い、病んだ心や暴力にやり切れない気持ちにさせるが、一縷の救いも描いて次の事件に特捜部Qが向かう動機を与える。

 2011/06/15、ハヤカワポケットミステリーブック、461ページ、2,090円(定価)。

 

③『密漁海域 1991年根室中間線』亀野仁(宝島社)

 日ロ中間ラインが海を隔てる根室海峡を舞台に繰り広げられるバイオレンスアクションと銘打ったミステリ小説。テロリスト化した過激な環境保護グループが漁師や密漁者を襲って殺すといった荒唐無稽な筋書きだが、海上保安部や越境操業を繰り返す特攻船、密漁者、ロシアマフィアさらにヤクザの絡みなどいわゆる暗部がリアルに描かれている。しかし、あくまでも漁業の日常的世界から外れたアウトローの生き方であり、主人公の美咲も海上保安官時代に不幸な銃撃事故を起こしたとは言え、特攻船に乗り込み、派手なガンアクションで敵を倒すという設定にはいささか無理があるだろう。

 事件の背景にある漁業の実態などをよく取材しており、事実関係に大きく間違いはないが、所詮、事象を評価する目は一般マスコミに相当に毒されており、あまり感心するような価値観はない。

 1991年はソ連が崩壊し、新生ロシアによって極東の漁業秩序は大きく変化し、いわゆるレポ船や特攻船などの暗躍に代わるロシアからの直接的なカニ、ウニなどの「密輸」によって道東は活性化する。30年後、根室に戻った美咲は、憎き「海魔」の正体を曝き、命を落とした多くの仲間の霊を慰め、自らの負い目に区切りをつける。

 2022/12/20、宝島社文庫・328ページ、770円(定価)。

 

【人文ベスト3】

①『日本人が移民だったころ』寺尾紗穂河出書房新社

 シンガーソングタイラーで文筆家の著者が『南洋と私』『あのころのパラオをさがして』に続く、戦前南洋に渡った日本人(移民)を追跡するルポの三冊目。戦時中、大きな犠牲を払いながら植民地から命辛々故郷に引き揚げてきた彼らの戦後は決して明るく豊かなものではなかった。開拓と同様の辛酸をなめ、あるいはさらに別天地を求めて南米、パラグアイに再び移民した人々の体験を聞き書きし、見落としがちな庶民の戦後史として浮かび上がらせた。

 著者はフィールドワークに優れた社会、歴史の研究者としていくつかの書籍を上梓し、成果を世に問うてきた。まさに戦後日本は高度経済成長で、日の出の勢いだったが、外地から引き揚げ者に決し優しい社会ではなかった。戦前はもちろん戦後になっても移民を奨励する政策を続けたが、彼らの苦労を十分フォローしてきたわけではない。パラグアイに移民した人々の証言にもそれが如実に表れている。

 翻って現在、日本社会は外国人労働者に正当な権利を与えているとは言えず、もちろん日本への移民を奨励はしていない。著者が明らかにした事実を知れば、外国人排訴の声はいかに日本人の歴史と矛盾するかがわかるだろう。

 2023/07/30、四六判・196ページ、1980円(定価)。

 

②『公営競技史 競馬・競輪・オートレース・ボートレース』古林英一

 地方自治体が胴元となって行うギャンプルを「公営競技」と言い、財政を支える貴重な財源として日本の戦後に独自の発展を遂げた。その知られざる内幕を地域経済との関わりで研究してきた経済学者がわかりやすく、かつ歴史的な軌跡を一冊にまとめた。

 帯にも派手に記されている通り、バブル経済が崩壊後、長い低迷期を経て公営競技はV字回復し、7兆5千億という巨大市場を形成している。「世界に類をみない独自のギャンブル産業はいかに生まれ、存続してきたのか」。まさに一大歴史絵巻がここに世に現れる。

 競馬、競輪、オートレースは背後に産業があり、特に競走馬となる軽種馬生産は生産組合による農業の一分野として農林水産省が管轄している。しかし、ボートレースは日本財団日本船舶振興会)の創始者笹川良一の手によって生まれ、最も成功した公営競技となった。その秘密がどこになったのか。著者はモラルによる潜入感ではなく、冷静な経済分析よって明らかにした。

 もう一つ、公営競技の隆盛は、ICT技術を積極的に活用した投票券のネット販売が支えいることを何度も強調している。これによって時間、空間を超えた広がりを見せた公営競技はどう展開していくか。とても楽しみに思えた。

 2023/08/10、角川新書・316ページ、1100円(定価)。

 

③『史的システムとしての資本主義』ウォーラーステイン/川北稔(岩波書店

 壮大な「世界システム論」で歴史を読み解き、資本主義をひとつのシステムとして分析、その成り立ち、盛衰、そして未来への展望を示す。

 社会システムである資本主義は様々な矛盾を抱えながら、流転し、いずれ自ら変貌を遂げ、新たな史的システムに転身するという。封建制から資本制に代わった時、貴族階級がブルジョア化した。そしてブルジョアは労働者と対立しながら、社会的発展の主導的役割を担い、異なるシステムへの移行に向かう。

 マルクス主義的な歴史観、分析ツールをもとに、社会の移ろいを客観的に捉えるが、プロレタリア階級がブルジョア階級を倒し、政治的ヘゲモニーを握ることで資本主義を終焉に導く。つまり社会変革=革命論からは変化を見ない。

 「中核と周辺」などの概念を使い、資本主義を実存として捉える。あるがままの歴史をモデルに当てはめる手法を排し、モデルに固執することなく、モデルの柔軟なかつ現実的な構築を試みる。史的システムとして資本主義をみることで、硬直的な歴史観から解き放たれる。

 2022/07/15、岩波文庫、269ページ、900円(定価)。