加藤典洋氏の近著「敗者の想像力」「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」「対談 戦後・文学・現在」

 ポスト戦後の歴史的転換に独自の視点を提示し、福島原発事故の後の世界を構想する加藤典洋氏の近著を読んだ。

『敗者の想像力』(集英社新書

 1945年の敗戦をもって日本は敗者の仲間に入った。いつまでも終わらない戦後に決別するために「敗者の想像力」を徹底することで、壁を突破しようあるいは突破してきた思想や文学者を取りあげる。
 小津安二郎やイシグロカズオ、庵野秀明山口昌男多田道太郎吉本隆明鶴見俊輔宮崎駿手塚治虫らをとりあげ、敗者ぶりを検証する。圧巻は巻末の大江健三郎『水死』論で、そこには沖縄での集団事件における軍の関与をめぐる名誉毀損訴訟で孤独に戦う大江の姿を浮かび上がらせ、最後の小説に込めた思いに思いを馳せる。
 戦後の成長神話を引き続き継承しようとする日本の政治経済的状況に、敗者でなくては不可能な価値観、世界観からしっかりと向かい合う。ただし、日本は本当に「対米従属」をずっと続けてきたのか?という歴史的な問いは残る。日本の為政者は最終的には核武装をして米国からの軍事的な自立を望んでいるのかもしれないが、両者の摩擦、特に経済をめぐる対立はずっと続いてきたし、これからも続いていくのだろうと考えた。

『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』幻戯書房

 まず、変なタイトルだなぁと思い、アナクロだ!と反応してしまった。もちろん読んでみればそれは著者による挑発だとわかる。
 いまとはどんな時代か?2018年明治150年、2020年東京オリンピックという歴史の狭間で、天皇退位、元号変更が控える。後退や低迷に向かう社会経済の状況を踏まえ、歴史への根源的な問いを発する。得意の反語的毒薬が効いている。
 かつて『敗戦後論』で戦後の終わらせ方と憲法改正を提起して物議を醸し「右翼思想」の持ち主として排除された。そして今回は日本近代の革命思想「尊皇攘夷」にターゲットを定め、「尊皇開国」の腰砕けた明治維新を超える展開の可能性を論じ、来たるべき革命=リベラル思想を鍛える糧としようとする。大胆不敵な試みに脱帽…。
 いまさら「尊皇攘夷」を持ち出せば、排外主義、皇国史観、右翼ナショナリズム、最近のレイシズム、ネットうよ、ヘイトスピーチまで一足飛びで向かう。
・戦後社会が正面から向かってこなかった「尊皇攘夷」という革命思想のラディカリズムを解き放すため、著者は丸山真男山崎闇斎論(闇斎学)、福沢諭吉勝海舟批判、山本七平明治維新=近代化論などを手がかりに、不徹底な議論、浅薄な乗り換えを排しながら、土着の革命思想である尊皇攘夷論の原石の輝きを取り出し、次の時代への足ががかりをつけようとしている。戦後にも流れる水脈生かそうという試みは、多くの誤解や否定的な反応を生むことになるだろうが、そこはすでに経験済みで腹が据わっているに違いない。

『対談 戦後・文学・現在』而立書房

 対談だから、どちらかというとわかりやすい、平易な言葉で語り合うというイメージで読むと、ちょっと裏切られる。ヒリヒリするような思想のインタープレイがぐっと腹の底にこたえてくる。
 この対談は、文芸に関わらず様々な分野で発言し、独自の観点から現状を分析し、東日本大震災福島第一原発事故以降の日本社会に新しい論点を提起している著者の近年の約20年余にわたる対談が収められている。
 第一部と第二部では少し趣向が異なる。第一部がいわゆる多方面な人物との対談で、話題も「水平的」に広がる。第二部は、社会学者の見田宗介真木悠介)と、個人となった思想家の吉本隆明との、戦後の社会構造や世界観について「垂直的」に深く掘り下げた議論が中心となっている。
 とても良いと思ったのは、やはり故吉本との交流というか、言葉のやり取りが実に深いものを感じさせる。すでに相手が故人であることもあろうが、吉本が最晩年にどんな思考の回路で「無差別テロ」や「憲法改正」を考えていたのか、たいへん興味深い。ここでは触れられていない「原発事故」をめぐる反応も、吉本独自の見方は変わらなかった。
 最後の4人で行った座談でも、吉本は自らへのリスペクトは別に、世代が下の論者に決して追従せず、「個人の自由」は絶対に手放さないという姿勢を貫いている。