2018 スペシャル・イッシュー・ブック


 2018年の一番特別な本は、12年間にわたり描き継がれ、『1969〜1972レッド最終章』によって3部作13冊が完結した『レッド』。連合赤軍事件をモデルにした創作マンガだが、ほとんどが事実に基づき、作者の思いつきによるフィクションは極力廃するといったストイックな手法が採られている。自らエロ漫画家を名乗る山本直樹の畢生の大作完成に敬意を表するとともに、今も社会的な影響が続く連合赤軍事件を改めて考え、受け止める契機となった。

『レッド三部作(1〜13巻)』山本直樹講談社
第1巻は2007年9月21日、最終章は2018年8月23日発行。

 12年にわたり一時中断をはさみ『イブニング』に連載され、3部作全13巻の大作として完結した。15人の若者の命が失われた連合赤軍事件を忠実に漫画化した作品として注目され、2010年に第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞している。
 1969年〜1972年、銃による革命をめざす若者たちの青春群像。学生運動を起源とする革命の帰結としての連合赤軍事件。総括による「処刑」に象徴される暴力と狂気。その全貌を描こうとした野心作であり、風化してしまった革命の時代への弔辞である。
 連合赤軍事件は、「浅間山荘」のおける10日間の銃撃戦と赤軍兵士たちの証言によって衝撃の事実が明らかにされ、戦後日本の反体制運動への価値観をひっくり返した。
 おぞましい記憶として多くに日本人から消し去られ、戦後史の影に封印された。それをあえて事実、証言に基づく歴史としてエロ漫画家、山本直樹を蘇らせ、いまを生きる人々にさらけ出した。そこには「事実を無視した創作」はない(元赤軍兵士・植垣康博)。
 浮ついた日本への冷水なのか、あの時代への郷愁なのか。いずれも舌足らずだが、事実を直視する重さを再び読者に投げかける。
 『ユリイカ』2018年9月臨時増刊「総特集=山本直樹」(—『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで—)には、3つのレッド論が書かれている。そして3つのインタビュー、対談が組まれ、本人が作品を語っている。
 山本は、動機を連合赤軍事件が面白かったから、これはマンガにすれば受けると思ったというような、話をしている。描きたかったのは、総括、リンチ、山越えで、第2部が終わったら、銃撃戦のアクションばかりなので、閉口したような感想をもらす。
 レッド論の方は、マンガ評論家、社会学者らが、カルトから連赤への作者の関心の変化や、組織と人間論や、一般的な社会運動論のような観点からアプローチしている。マンガ評論家の紙屋高雪は「極度の異常な暴力と支配に対する人間的な抗議を描く真摯さ」、ら社会学者の富永京子は「日本社会にトラウマとして残る政治行動を、解釈可能な形で論じた唯一無二の漫画作品」、同じく学者の足立加勇は「怪物的Mは虚構内存在であることを放棄し、過去に実在していた団体に己を仮託することによって群体的リヴァイアサンへ変身した」と評している。
 その中で、登場人物から「大義」が語られないこと、山の中での逃げ場がない密室での「総括」の異様さが語られている。作者は、殺し合った彼らを「おかしい人」、頭の狂った人種と語り、もっとも関心がそそられるとしている。
・そうした言葉を額面通り受け取るわけにはいかない。15人にナンバリングをほどこし、時折カウントダウンまでして、強く死の刻印を押された死者たち。政治活動と並行し、ゆっくり進む日常生活を描いた作者の視点。彼らにもエロスはあり、欲望から隔絶された存在ではない。
 そんな場所では「大義」は意味をなさないのか?それが捨象された、このマンガの「ノンフィクション性」に少しばかり不満を感じた。そして彼らは山で訓練ばかりでなく、学習もしていたはずで、一体何を読んで、どんな討論をしていたのかも、知りたくなった。

2018年 今年読んだ人文系ベスト3

 貧しい読書リストから選んだ候補はこれです。読んだ順ですが、年の初め頃読んだ本は正直言って内容を忘れています。

1『ゲンロン0 観光客の哲学』東浩紀
2『対談 戦後・文学・現在』加藤典洋
3『あのころのパラオをさがして 日本統治下の南洋を生きた人々』寺尾紗穂
4『現代社会はどこに向かうか−高原の見晴らしを切り開くこと(岩波新書)』見田宗介
5『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官反抗したか(講談社現代新書)』鴻上尚史
6『日本軍兵士−アジア・太平洋戦争の現実(中公新書)』吉田裕
7『異端の時代—正統のかたちを求めて(岩波新書)』森本あんり
8『原民喜 死と愛と孤独の肖像(岩波新書)』梯久美子
9『フィル・スペクター/甦る伝説 増補改訂新装版』M・リボウスキー/奥田祐士
10『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。幕末・戦後・現在』加藤典洋
11『唐牛伝 敗者の戦後漂流(小学館文庫)』佐野眞一
12『日本の同時代小説(岩波新書)』斎藤美奈子
13『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰記 戦後文学編』高橋源一郎

 ベスト3は次の3冊でした。この3冊はさすがに内容を覚えています。フィル・スペクターの評伝は、いかにも時季外れだが、アマゾンで売りに出していたら、思いがけず注文が来てあわてて読んだ。全部はさすがに読めず、図書館から借りて読むという落ちである。異端の時代は、小説トリッパーに長期連載されたものを読み続け、まとめて再読したいと思っていたら、ハードカバーではなく新書で出たので飛びついた。ちなみに著書は名前から女性の学者とばかり思っていたが、『反知性主義』で評判をとった著名な男性学者で驚いた。タカハシさんの批評(小説?エッセイ?)は、前作を途中まで読んだ記憶があり、戦後文学だったら、知っている話も多いかなと思って手にとったが、改めて困難な情況に飛び込んでの真摯な語りに心を動かされた。


1.『フィル・スペクター/甦る伝説 増補改訂新装版』M・リボウスキー/奥田祐士(2008/03/21白夜書房

 「ウォール・オブ・サウンド」という音づくりや、故大滝詠一氏のリスペクトなどで知られる米国ポップス・ロック界の巨人の長編伝記。若くして音楽プロデューサーの才能に目覚めたフィル・スペクターはピークと呼ばれる1963年にロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」を大ヒットさせた時にはわずか23歳。20代で音楽業界に君臨し、ビートルズの「レット・イット・ビー」のプロデュースで日本の若者にも一挙に認知された。
 若くして頂点を極めたスペクターは、1980年、1990年代と時代をやり過ごし、2003年自宅で女優を射殺した容疑でどん底に突き落とされる。2009年には殺人罪で懲役19年の刑が確定。そうした波乱万丈の半生を著者は豊富な証言によって赤裸々に描く。
 本書は故大滝詠一監修プロデュースだけに、註や解説などが行き届いており、1950年代〜60年代の米国音楽業界を知らない人でも十分理解できる。ただし、ボリュームがボリュームだけに、根気よく読み込む努力が必要だろう。
 読んでいくと、ポップスやロックなどの音楽に詳しくなくても、フィルの奇妙な性格や人を押しのけ、裏切るような生き方に人間的な興味がぐっと引き寄せられる。単なる金持ちの奇人が多いかもしれないが、何せ「音の魔術師」の天才である。フィルが発するカリスマ性は現場(スタジオ)にいないとわからないとの証言はまさにリアルだ。
 大滝氏によれば、本作はフィル・スペクターの伝記としては3冊目だが、本当のスペクターはわからない、容易に理解することが不可能な人物だという。もちろん、行きずりのグラマーな女優を家に引き込み、殺した行為も、スペクター・サウンドには全く無関係で、彼の偉大な業績をおとしめるものではない。
 そこで、フィル・スペクターとは何か。再び問うと、本書に出会ったのは一つの入り口に過ぎず、フィルが演奏・プロデュースした音楽を聴くしかない。知っている範囲では、ジョージ・ハリスンビートルズ解散後、初のアルバム「オールシングス・マストパス」が大好きで、後期における最も成功した例の一つではないかなと感じている。


2.『異端の時代—正統のかたちを求めて』森本あんり(2018/08/21岩波新書

 米国のトランプ大統領に代表されるポピュリズムと「反知性主義」を宗教における「正統」と「異端」の関係から読み解く。先行する丸山真男の論考や初期キリスト教の神学史的な展開、さらに宗教学や宗教社会学によって現在の社会状況を分析する。精緻な論理によって、正統があって異端があるというような通俗的な理解に変更を迫る。
 正統は異端によって正統たらしめる。むしろ正統を襲い、正統にとってかわるような真の異端がないことが現代社会の特徴であると指摘する。
 著者の論点は、あくまでも現代の社会状況から始まり、キリスト教の宗教史を経て、ポピュリズム批判につなげる。もちろん、日本人が好む「異端」と「正統」がキイワードとなって常識への挑戦を試みる。
 正統の根拠は教義や正典ではなく、「信じられている」ものが正統である。「宗教」が個人主義化し、「信憑性構造」を持たない現代の「正統」。そして氾濫する「なんちゃって異端」。著者は「現代には、非正統はあるが異端はない」と語り、正統の回復は真の異端が現れることによって可能だと主張する。
 本書における分析、批判の対象は、政治や宗教、イデオロギーなどの社会意識であり、現代の日本人には「虚偽性」や「幻想性」をまとったインチキ臭いものに映る。しかし、そうした熱情に満ちた精神の発露なしに社会は形成されず、「異端」も「正統」も出現しない。組織化された「正統」は、「権威」を生み、やがて「堕落」する。権力が「腐敗」する時、理想を掲げた正真正銘の「異端」が再び現れ、「正統」に取って代わることによって「腐敗」を正す。こうした歴史の大舞台を動かす健全な循環が現代は働いていない。
 全体を僭称する現代の独裁者(ポピュリズム)ではなく、全体の中の個を意識した「正義」=「異端」がすなわち社会の広範に偏在する「正統」、信憑性を形づくる。そうした構造を明らかにすることを通じて著者は、混沌としたポピュリズムや背後の「反知性主義」を撃とうとする。
・新書の体裁ながら読み応え、考え応えがある、今年一番の読書となった。朝日新聞社の文芸誌『小説トリッパー』に2016年春号から2017年冬号まで8回連載され、足かけ3年間にわたり読んだ身からすれば、長い物語に付き合いながら、段々とその世界に慣れ、最後は胸のすく思いがした。十分に楽しんだ読後感に浸っている。もちろん充実感が必ずしも良く理解できたことにつながるものではないが。

3.『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰記 戦後文学編』高橋源一郎(2018/03/15講談社

 小説家高橋源一郎が「もう文学なんてありませんよ」という戦後文学の状況に対し、ロックンロールを標榜し「騙されるな」「怖がるな」と煽動する内田裕也の言葉を借りて一矢報いようとした野心的な作品。
 前作の日本文学盛衰史近代文学を完膚なきまでにパロったタカハシさんが孤絶化する戦後文学の歴史をひもとき、ある部分でおちょくり、ある意味でリスペクトしつつ「今夜はひとりぼっちかい?」と死んだ戦後文学に語りかけ、具体的でも現実的でも何かをやろうとした志を汲み取り、次世代に伝えようとする。
 フツー、タカハシさんは日本を代表するポストモダンの小説家というフーに言われているらしい。私個人としては、Jポップ小説家というホーが世界的な支持が得られるような気がしてならない。
 この小説で驚くのは、内田裕也都知事選に出た時の政見放送の演説をきちんと受け止め、石坂洋次郎の「光る海」の戦後文学性に正統な評価をしていることだろう。これはパロディのようでそうではないとタカハシさんは言っている。
 それと特筆すべきは戦争の体験や東日本大震災福島原発事故に対し「考える」ことを「ことば」によって続けるタカハシさんのプロセスはとても共感するものがあった。
 戦後文学の文学は作者にとって公的なことばと考えられ、「戦後」という空間そのものの広がりに、ほぼ等しい。(本書より)
 小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやってくる共同体の内実を予見する能力をもっている。(本書より)
 震災後の一種の熱狂的な行動の「正しさ」に強い違和を感じつつ、前回の戦争と同じ「非常時」に直面したタカハシさんは、「時機」をとらえ、いつもと違う行動をとる。「自分にとって大きな負担となる金額を寄付する」。
 親交のある批評家加藤典洋氏は「原発事故の意味について考えることは、もろく、軽いことである。強いて考えようとすると、うしろめたくも感じられる」と語り、「死に神に吹き飛ばされる」感覚を書き記した。タカハシさんは、具体的でもなく、現実的なものでなく、知識でもないもので、戦時下のニッポンを書こうとし、最後に「なんでも政治的に受けとればいいというものではない」というエピローグを付けた。

2018 今年読んだ小説ベスト3

 小説は起伏が激しく、年によって読まない。2018年がそれ。びっくりするほど読んでいない。買っても読まない本も多い。どうしてか?

【候補】
1『死の谷を行く』桐野夏生
2『シミュラクラ[新訳版](ハヤカワ文庫)』P.K.ディック/山田和子
3『オールド・テロリスト』村上龍
4『それまでの明日』原 籙
5『文章教室』金井美恵子
6第158回(2017年下半期)芥川賞受賞作品(文藝春秋2018年3月号)
百年泥石井遊佳と、『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子

 ベスト3は次の3冊でした。内容は人文系よりも覚えているので、小説を読むのは楽しいが、進まないという実態です。
 「文章教室」は、田舎の書棚の残っていた本の1冊で、尊敬する金井センセイの小説を読み、改めて感心したのでした。
 2017年下半期芥川受賞作品は充実していた。特に「おらおらでひとりいぐも」は、話題性抜群で、単行本もたくさん売れた。超高齢化社会にふさわしく74歳の夫に先立たれた女性がチャレンジする冒険の日々が新鮮だった。
 「死の谷を行く」は、元連合赤軍の女性兵士が主人公で、「山に入った」女たちの思い、彼女たちが生きる日常と、現在も背負う過去の重さを描く。

1.『文章教室』金井美恵子(1985/01/25福武書店

 この小説は、著者の新境地を開く小説として福武書店が出していた文芸誌『海燕』に1983年に断続的に連載され、1985年に出版された。不倫関係を軸に現役小説家がどのように作品を生み出していくか、有閑マダムを顧客とした文章教室をからめ、それぞれの登場人物の赤裸々な意識が描かれる一種のメタ小説としての恋愛小説が展開される。
 文中には、フランス文学者を近づけてはダメですよという警告もあり、強烈な文壇への批判が込められている。また、無数の「引用」が散りばめられ、ポストモダンの知識をひけらかす文化エリートへの反発も強烈だ。お高くとまる人々だって、やってることは下世話な恋愛遊戯であり、テーマは結婚とか離婚とか極めて打算に満ちたものに他ならないというのが金井の「批評」なのだろう。
 たくさんの文化的な意匠や記号が頭をもたげ、教養小説の形をとりながら、すべてがキッチュに流されて、しかも通俗的な色恋、セックスを交えた、純愛あるいは無知と表裏一体の愛をカオスのようにぶちまける。
 若い娘に捨てられ、絶望を感じた現役小説家は『告白』という長編小説をものにして世に問うが、思っていたほどの反響は得られない。しかし、文壇的な成功を収める。文章教室に通っていた人妻は、不倫相手から別れを告げられ、今度は小説に挑戦しようと意欲を燃やす。
 結婚を迫られた若い大学の研究者は、来日した英国人の恋人から最後通牒を突きつけられ、結婚を迫ってきた可愛い女の妊娠によって絡め取られる。恋の季節が終われば、すべて収まるところに収まって、それぞれが成長し、人生の新たな意義を悟るというのが通俗恋愛小説の正しい発展らしい。
 金井は、シニカルに突き放すだけでなく、そういう家庭をめぐる人間関係の不条理、フォニーとしか言いようのない、くだらなさをユーモラスかつリアルに描き、読む者を飽きさせない。それは一種の週刊誌的なスキャンダルの愉しみにも通じる。
 文芸誌連載時にはもちろん読んだ記憶がなく、35年も経って初めて通読したが、小難しい理屈も多いのに、たいへん面白く、躓くことなく読めた。
 帯にはこうある。
「佐藤氏一家」親娘三人のそれぞれの恋愛と文章教室の講師である「現役作家」の恋愛を、現代の風俗と知的ファッションの最尖端で躍動させた華麗な挑発!
だが戦闘的長編小説
 菅野昭正の東京新聞文芸時評
 当世の尖端的な知的風俗を適度にあしらったり、ものを書く効果についてときおり言及したりしながら、現代生活の表層を切りとってみせた小説である。(中略)どこにでもありそうな情事やカタログ的な恋愛が、意外にいきいきした色彩を帯びているように見えるのは、鋭い諷刺のまなざしを通して見られているからである。それに、恋にあこがれる気持ちを「文章化」する主婦のうしろに、古典的大小説のヒロインの影を重ねるとか、流行に遅れまいとして右顧左眄する「現役作家」の戯画性など、さまざまな仕掛けを通して、乾いた明るさがただよっているのも忘れるべきではない。
 菅野センセイはもちろん東大出のフランス文学者です。

2.『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子(河出書房新社石井遊佳百年泥』(2018/1/24新潮社)


 第158回(2017年下半期)芥川賞は、久々に女性作家によるダブル受賞が話題になって気になっていたが、つい買いそびれ、図書館から借りることに…。石井遊佳さん(54歳)と若竹千佐子さん(63歳)はいずれもヤングではなく、りっぱな女性としてのキャリアを積んだ作者が織りなす二様の物語は、豊饒な小説がもつ固有の楽しさを与えてくれる。芥川賞という話題性ばかり選考する
文学イベントの表層を裏切る、濃厚な世界が開けてくる。小説は正直で読めば誰にもわかることを改めて感じた。
 石井遊佳さんの『百年泥』は想像力をかき立てる快作。
 インドの北部で百年に一度の洪水に遭い、川が氾濫し町中が水浸し。あらゆる日常が麻痺し、泥の中からすでにこの世にいない人々を含め、次々に現れ、夢と現実の境目のない世界が立ちこめる。そこで見たり、聞いたり、触れたりする者は百年の及ぶ切れ目のない記憶であり、主人公はそれを受け入れ、精神の交流を楽しむ。
 面白い小説であり、幻想がより一層のリアルを醸し出す。そういう物語を構想できる著者の小説家としての才能に快い感心を抱いた。
 若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』は、老人をめぐる社会の偏見に文学の力で反撃する。
 作品は、夫を亡くし一人暮らしの老人が東北弁で繰り広げるモノローグ。東北弁のリズムに促されて、どんどん突き進んでいく。どこに行くのかわからない冒険の日々。新しい世界に向かう主人公の自由な精神の横溢に共感する。夫の先立たれた寂しい気持ちに停滞しない勇気と発見に励まされ、孤独の持つ無限の可能性に驚かされる。
 まさに老いは怖いものではなく、新しい飛翔へのプロローグに他ならず、人生の冒険に終わりがないことの真実がここに高らかに宣言された。

3.『死の谷を行く』桐野夏生(2017/03/30文藝春秋

 当事者の回想や記録をはじめ、思想的な総括や評論、小説や映画、演劇、エログロナンセンスなスキャンダル・ジャーナリズムまで数多くのネタになってきた連合赤軍事件。著者は、子供を産む性である女性性、母性の観点から元女性兵士の内面を描き、そしてある意味「山に入った」女たちの願いと痛切な思いを肯定的に描く。
 最後の劇的な親子の対面のシーンで、なぜ元赤軍女性兵士が子供を捨て、孤独に生きてきたのかが明かされる。
 ちょっとネタバレになってしまうのは、著者のラストに持って行く盛り上がりのお膳立てがすばらしく、それに触れないと本当にこの小説の肯定の意味がわからなくなってしまうからだ。
 主人公の西田啓子は本名こそ変えていないが、下部兵士として事件後、5年間の刑期を終え、学習塾の先生として密やかな生活を続ける。彼女の隠遁が乱されるのは、仲間からの一本の電話だが、その背景には事件から40年が経過し、獄中の最高指導者・永田が死に、東日本大震災など否応もない外の変化が彼女に押し寄せてきたせいでもある。ここに当事者ではない多くの人々の日常と交差する人生の揺らぎが浮かび上がる。

加藤典洋氏の近著「敗者の想像力」「もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために」「対談 戦後・文学・現在」

 ポスト戦後の歴史的転換に独自の視点を提示し、福島原発事故の後の世界を構想する加藤典洋氏の近著を読んだ。

『敗者の想像力』(集英社新書

 1945年の敗戦をもって日本は敗者の仲間に入った。いつまでも終わらない戦後に決別するために「敗者の想像力」を徹底することで、壁を突破しようあるいは突破してきた思想や文学者を取りあげる。
 小津安二郎やイシグロカズオ、庵野秀明山口昌男多田道太郎吉本隆明鶴見俊輔宮崎駿手塚治虫らをとりあげ、敗者ぶりを検証する。圧巻は巻末の大江健三郎『水死』論で、そこには沖縄での集団事件における軍の関与をめぐる名誉毀損訴訟で孤独に戦う大江の姿を浮かび上がらせ、最後の小説に込めた思いに思いを馳せる。
 戦後の成長神話を引き続き継承しようとする日本の政治経済的状況に、敗者でなくては不可能な価値観、世界観からしっかりと向かい合う。ただし、日本は本当に「対米従属」をずっと続けてきたのか?という歴史的な問いは残る。日本の為政者は最終的には核武装をして米国からの軍事的な自立を望んでいるのかもしれないが、両者の摩擦、特に経済をめぐる対立はずっと続いてきたし、これからも続いていくのだろうと考えた。

『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』幻戯書房

 まず、変なタイトルだなぁと思い、アナクロだ!と反応してしまった。もちろん読んでみればそれは著者による挑発だとわかる。
 いまとはどんな時代か?2018年明治150年、2020年東京オリンピックという歴史の狭間で、天皇退位、元号変更が控える。後退や低迷に向かう社会経済の状況を踏まえ、歴史への根源的な問いを発する。得意の反語的毒薬が効いている。
 かつて『敗戦後論』で戦後の終わらせ方と憲法改正を提起して物議を醸し「右翼思想」の持ち主として排除された。そして今回は日本近代の革命思想「尊皇攘夷」にターゲットを定め、「尊皇開国」の腰砕けた明治維新を超える展開の可能性を論じ、来たるべき革命=リベラル思想を鍛える糧としようとする。大胆不敵な試みに脱帽…。
 いまさら「尊皇攘夷」を持ち出せば、排外主義、皇国史観、右翼ナショナリズム、最近のレイシズム、ネットうよ、ヘイトスピーチまで一足飛びで向かう。
・戦後社会が正面から向かってこなかった「尊皇攘夷」という革命思想のラディカリズムを解き放すため、著者は丸山真男山崎闇斎論(闇斎学)、福沢諭吉勝海舟批判、山本七平明治維新=近代化論などを手がかりに、不徹底な議論、浅薄な乗り換えを排しながら、土着の革命思想である尊皇攘夷論の原石の輝きを取り出し、次の時代への足ががかりをつけようとしている。戦後にも流れる水脈生かそうという試みは、多くの誤解や否定的な反応を生むことになるだろうが、そこはすでに経験済みで腹が据わっているに違いない。

『対談 戦後・文学・現在』而立書房

 対談だから、どちらかというとわかりやすい、平易な言葉で語り合うというイメージで読むと、ちょっと裏切られる。ヒリヒリするような思想のインタープレイがぐっと腹の底にこたえてくる。
 この対談は、文芸に関わらず様々な分野で発言し、独自の観点から現状を分析し、東日本大震災福島第一原発事故以降の日本社会に新しい論点を提起している著者の近年の約20年余にわたる対談が収められている。
 第一部と第二部では少し趣向が異なる。第一部がいわゆる多方面な人物との対談で、話題も「水平的」に広がる。第二部は、社会学者の見田宗介真木悠介)と、個人となった思想家の吉本隆明との、戦後の社会構造や世界観について「垂直的」に深く掘り下げた議論が中心となっている。
 とても良いと思ったのは、やはり故吉本との交流というか、言葉のやり取りが実に深いものを感じさせる。すでに相手が故人であることもあろうが、吉本が最晩年にどんな思考の回路で「無差別テロ」や「憲法改正」を考えていたのか、たいへん興味深い。ここでは触れられていない「原発事故」をめぐる反応も、吉本独自の見方は変わらなかった。
 最後の4人で行った座談でも、吉本は自らへのリスペクトは別に、世代が下の論者に決して追従せず、「個人の自由」は絶対に手放さないという姿勢を貫いている。

2017 今年読んだ人文系のベスト3

 人文系と言ってもほとんどノンフィクションの類しか読んでいない。それはそれで面白くてタメになったと思うが、ちょっと情けない感じもしてくる。今年こそはもう少し硬派の本を読んで「教養」を身につけようと思う。60歳を過ぎたら「教養」しか頼りになるものがないことがわかった。

1. 安井かずみのいた時代 島崎今日子(集英社

 売れっ子作詞家として60年代に一世を風靡した安井かずみは、猛烈に働き、本物だけを愛し、男を恣にする奔放な女性として時代の先端を突っ走る。ところが、30代の後半に年下の作曲家で音楽プロデューサー加藤和彦と出会い、結婚してすっかり家庭に落ち着く。
 二人は理想のセレブカップルともてはやされるが、決して自由でない役割を演じ続ける。55歳で死んだ安井。彼女の死後、すぐに再婚、そして離婚し自死した加藤。戦後が右肩上がりだった頃、音楽とライフスタイルをリードした二人の残したものを気鋭のライターが描き切る。


2.ロッキング・オンの時代 橘川幸夫晶文社

 1972年に創刊されたロック雑誌『ロッキング・オン』をつくった4人。その1人が著者で、激動する社会を背景に揺れ動く当時の思いをありのままに証言する。著者の本の中で最も共感できた。
 渋谷陽一を中心とする『ロッキング・オン』、あるいやロック・フェスなどに興味がなくても、1970年代の前半という時代をすごくリアルに感じることができる。青春群像を描いたドキュメントとしてもたいへん面白く、一気に読める。
 ただしロックに関しては「バカではない」姿勢が先鋭に出て、その分、すごく理屈っぽく、いわゆるロックファンにはちょっとね…という感じか。てな部分を割り引いても「共感」はビクともせず、すべてそのまま「70年代の青春」として受け入れたいと思った。


3.女子プロレスラー小畑千代 戦う女の戦後史 秋本訓子(岩波書店

 戦後のスポーツであるプロレスは、力道山の活躍によってポピュラーとなったが、女子プロレスというと「キワモノ」的な見せ物のイメージが強く、社会にスポーツとして認知されなかった。
 主人公の小畑千代は、1955年にデビューし、1968年にテレビで蔵前国技館での米国女子プロレスラーとの試合が放映された初の日本女子プロレスラーである。プロレスを通じて「自由な女」の人生を一環として生き抜き、81歳の今なお「現役」だと語る。
 この本、大手書店で置くところに困っていました。スポーツコーナーでもなく、フェミニズム系でもなく、買い取りの岩波だから苦労したと思う。内容からするともっと売れたはずだ。

2017 今年読んだ小説ベスト3

 遅まきながら2017年のことを思い出しています。2017年は、「失われた世代」の女王、ガートルード・スタインを3冊読んだ。また、格闘技など独自の世界を拓く増田俊也の小説、ノンフィクションも3冊読んだので、これも読まずにはいられない気持ちにさせた。ついでにピンチョンの探偵小説もつまんだ。

1.三人の女(中公文庫版)G.スタイン/富岡多恵子

 本文は文庫本で310ページほど、文字が小さく(たぶん9ポイント)、分量的にはかなり多い(1ページ43字×19行=437字)。「お人好しのアンナ」、「メランクタ」、「やさしいレナ」の三つの中短編によって描かれた米国で働くドイツ人の移民や黒人の下層の女性たち。
 全体が口語体で書かれて決して読みやすいものではない。嵐のような会話シーンがあり、句読点が少ない。
 ユーモアを交えながら、ほろ苦い後味を残す彼女たちの酷薄な運命は、楽しいものではないが、困難にもかかわらず、読ませる。読者の心をを引き込んで決して離さない魅力に溢れている。スタインの力技も凄いが、同じ詩人の富岡の訳がすばらしいと想像させる。

2.北海タイムス物語 増田俊也

 北海タイムスは実在の新聞社で、なんと1887年に創刊され、1998年に廃刊されている。バブル絶頂期に入社してきた主人公・野々村が他社とは全く異なる低賃金、重労働に耐えながら、新聞と会社を愛する先輩、同僚たちと交わす青春の日々を描いた感動作。
 なんとも変な世界なのだが、ほぼ著者の実体験と重なる自伝的な小説であり、実際の新聞がどう成り立っているのかを記者ではなく、新人整理部員という編集の立場から見せてくれる。そのリアルさがこの青春感動作を支えている。ただし、帯の「会社の、愛し方、教えます」は余計。

3.LAヴァイス T.ピンチョン/栩木玲子・佐藤良明訳

 現在80歳となるアメリカ文学の巨匠が72歳の時に書いたというから驚きだ。端的に言えば、探偵小説。長大で難解な他の代表作に比べ、読みやすくフツーの小説として面白いと評されているようだが、初めて巨匠の作品を読む人にとってはかなり長大で、難解だ。
 60年代から70年代に花開いた西海岸のピッピー文化と管理社会への暗転を背景に、ロサンゼルスのマリファナでラリった探偵が次々に起こる殺人や失踪、偽装死亡と蘇りなどの謎を暴き、その奥底に横たわる警察権力の腐敗、白人至上主義などアメリカ社会の病理をクールに批評していく。

広告批評再び、そしてサヨナラ

 物置となっている昔の書斎を整理していたら、天野祐吉島森路子が出していた『月刊広告批評』が大量に出てきた。ついつい年代別に並べると、バブルまっただ中の1989年から終刊する2009年まで約20年分があった。
「ああ困った。これを何とかしないとまたそのまま元あった場所に戻すことになる」とため息をつきながら、表紙を眺めていた。広告批評だから、広告の話が中心のいわば「業界誌」みたいなものだが、そのレンジの広さと思想の深さはただ者ではなく、貴重な方向指示器の役目をしていたのだと改めて思った。
 表紙を彩ったアーチストやクリエーター、コピーライター、芸人、歌手、グループ、詩人、小説家たち。映画や音楽、写真、文学といった雑多なジャンルから流行モノをピックアップして批評する。いわば野次馬のスタンスで何にでも飛びつき、「広告SMAP」というような特集を組み、世間の目線をちょっとだけズラす。ある時期、実に見事な手際で世の中を切り、すぱっと目で見て分かる形に読者に投げ返してくれた。
 あんたたちが毎日見ている風景って、もしかしてこんなんじゃない…。そして読者もいろいろ考えた。いや、もっといいのあるよ。てな感じ。
 『月刊広告批評』自体は1979年に創刊され、だいたい7月と8月が合併号で出ていたから、年間11冊。2000年代に入って、カンヌで開かれていた「世界コマーシャル」祭りみたいな催しの優秀作品をCD-ROMに収録し、11月号に付録として同封していた。これが当時は珍しく面白かった。いわゆる三媒体(電波、新聞、雑誌)からインターネットへ広告の中心が移っていく過程で、既成のメディア中心の批評は役割を終えた。もちろん、編集長の島森が不治の病に倒れたことが最大の原因ではあるが…。残念。