2021小説・人文ベスト3

貧しい読書の中からあえて2021を振り返ると、小説はなぜか高村薫さんの社会派ミステリにのめりこんだ。『マークスの山』『リビエラを撃て』『レディジョーカー』『神の火』『冷血』『照柿』といった作品を読み、あるいは再読し、その重厚な世界構築に打ちのめされ、どっぷりと浸かった。

人文の方では、やはり2018年に亡くなった加藤典洋さんの遺作というか、死後に発表された批評、歴史、エッセイなどに動かされ続けている。未読のものも含め、全作品を鳥瞰しながら、今のこと、加藤さんならコロナに対しどんなことを言うのか、みたいな問題を考えたいと思った1年だったが、追いついていない。

 

【小説ベスト3】

①『バルタザールの遍歴』佐藤亜紀(角川文庫)

小説(伝奇)文庫・324p定価1012円

 今や物語文学の世界で巨匠とも言える著者のデビュー作で、様々な経緯があって新潮社→文藝春秋KADOKAWAと版元を変えながら待望の復刊となった。主人公はウィーンのハプスブルク家につながる貴族で、メルヒオールとバルタザールという二つの人格を一つの肉体で生きる人物。若者=放蕩貴族の遍歴は、物語世界において普遍的なテーマであり、日本でも貴種流離の物語は多い。しかし、いわゆる二重人格(解離性同一性障害)の主人公を病として否定、あるいはホラー化することなく冒険させ、しかも体外離脱までさせた所に面白さがある。もちろん、作者得意の博覧強記によってナチスが台頭しつつあるウィーンの上流社会、周辺に広がる辺境の様子が緻密に描き込まれている点は感心させられる。

 著者の本には、絶版され入手不可能となるものが多い。特に本作や2作目の『戦争の法』、そして盗作問題が絡んだ3作目の『鏡の影』などは、新潮社との関係で、不幸な運命をたどった。しかし、様々なルートで再刊、復刊がなされ、電子出版が普及したおかげで、ほとんどの作品は読むことができる。しかも古本における絶版プレミアムもなく、廉価でいつでも買える。出版社と著者、そして紙の本と電子書籍を考える上でも佐藤氏の初期作品群はとても大きな意味をもつ。

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②『三体 死神永生』〔上下巻〕劉慈欣著/大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳(早川書房)小説(SF)四六判・430p(上)445p(下)定価各2090円

 世界で2900万部以上、国内で47万部を売るなど大ブームを巻き起こした中国SF小説の第三部完結編だ。地球を侵略しようとする「三体文明」に対し、地球では「面壁計画」「階梯計画」などで対抗しようとするが、いずれも失敗。主人公の程心(チェン・シン)は若き航空宇宙エンジニアで、面壁者の羅輯から「執剣者」として最終判断を任されるが、決断を誤り、三体文明から送り込まれたロボットの「智子」に屈服する。しかし、「三体文明」はもう一つの異星人から母星を消滅させられる攻撃を受け、あっけなく地球から撤退する。

 第3部は、一貫として流れる物理的な宇宙の成り立ちの謎を解くというテーマに加え、次元や時間への問いが大きく取り上げられている。特に時間を超える光速航行が可能な宇宙船の開発によって、主人公たちは、時間の枠組み、過去や現在から解き放たれ、別の「小宇宙」にたどり着く。恋人の残してくれた「小宇宙」で程心と秘書は過ごすが、やがて「大宇宙」の危機を知らせるメッセージに従って戻り、生活を一から始める。途方もない構想で描かれたスペー ス・オデッセイは、彦星と織姫のようなロマンスを秘めつつ、幸福な別世界から危機的な現実世界に戻る「往還」という物語の王道をめぐる。

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③『冷血』(上、下巻)高村薫著(新潮文庫

小説(翻訳)文庫475p(上)440p(下)定価781円(上)710円(下)

 警視庁捜査1課合田刑事シリーズ。「サンデー毎日」連載時は「新冷血」だった。もちろん同名のカポーティによるノンフィクション小説を意識したものに違いない。重厚さ、ディテール、犯人の側に立った意識の流れなど、共通する部分もあるが、違う面も大きい。強盗に入った歯科医一家4人を殺害した2人組は金に困っていたわけでもないのに、空き巣に入ったつもりが残念な手口で皆殺しを犯してしまう。犯行はすべて認め、どちらにも相手への罪のなすり合いはない。犯人とその周辺に警察によるものすごいボリュームの聞き取り、調書が積み重ねられるが、そこに「動機」は判明しない。

 まさに社会の病理とか、時代の悪さとか切り捨てられがちな犯人に、合田警部は警察の限界を十分認識した上で向かい合おうとする。「利根川図誌」などの地誌や映画「パリ、テキサス」「トーク・トゥ・ハー」が犯人とのわずかな人間性の通路として切なく流れる。

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【人文ベスト3】

①『細野晴臣と彼らの時代』門間雄介著(文藝春秋

伝記(音楽家)四六判・511p定価2420円

 60年代〜70年代は「はっぴいえんど」、1980年代は「YMO」で活躍し、その後も歌謡曲から映画音楽、エスニック、ルーツ音楽などワールドワイドな音楽活動を続ける細野晴臣。アマチュア時代から50年にわたる軌跡を本人および周辺の重要人物からのインタビュー、膨大な資料渉猟によって描いた。

 日本のロックが自立に向かった始動していく過程が事実と証言で紡ぎ出された。主人公の「細野さん」と彼の音楽仲間の青春物語でもあり、歴史的な価値をもつ評伝となった。残念なのは、やはり「細野さん」が73歳であるように、音楽仲間の高齢となり、鬼籍に入った人も多く、独自のインタビューが不可能となったことだろう。特に著者も指摘しているように、盟友であり、日本のポップスの両極に位置した大瀧詠一が2013年12月に逝去した。そして「細野さん」のトロピカル三部作などチャンキー音楽に欠かせないキーボディストの佐藤博氏も2012年10月にこの世を去った。彼らによる証言が失われたのはなんとも惜しい。しかし、それを補って余りある著者の探究心がナルホドと思わせる交友の真実に迫る。

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②『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』山本昭宏著(中公新書

歴史(近現代史)新書・332p定価1012円

 戦後民主主義と言えば、風化と形骸化で死語となりつつあり、終わった戦後とともに同時に単なる民主主義と同義語になる運命にある。本書は、「戦後民主主義の精神が今ほど求められている時代はない」との認識から、その概念を「平和主義」「直接民主主義」「平等主義」の3要素に分け、変容を通時的に跡づけた。政治経済だけでなく、文化に注目し社会意識の変化にも焦点を当てている。主要文献や関連年表など、丹念な調査研究が伺われ、歴史のエアポケットが無いよう目が行き届いて点も評価できる。

 戦後史で取り上げるべき多彩で多様なキイパーソンをしっかりとりあげ、彼らが何を主張したのか、コンパクトにまとめている。筆者も高く評価する小熊英二の労作『〈民主〉と〈愛国〉』『1968』とは異なる意味で労作だろう。「終わった」戦後民主主義に民主革命(封建主義から資本主義への社会変革)の実現を見て戦った人々がいたことを思い出すために必要な教養がここにある。

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③『オレの東大物語 1966-1972』加藤典洋著(集英社

エッセイ四六判・253p定価1760円

 2019年5月16日、71歳で他界した批評家がまさに東大紛争真っ只中の青春時代を回想し、自らの思考のルーツに迫った。病床にあってわずか2週間で書かれた、まさに裸の自分をさらけ出した最後の1冊だ。加藤いわく「東大はクソだ」から始まり「オレもクソだった」の発見で終わる。

 この回顧は、軽い調子のものから「パンドラの箱」を明けることとなり、東大文学部の「無期限スト」を解除していくための転向の思想にたどり着く。呪縛が解け、ようやく批評家は旅立った。この本の軽やかさ、青春の輝きがなければ、強靱な加藤の思想の秘密に向かい合うことができなかった。

 あとがきで瀬尾育生が問う。加藤が生きていたらいま何を言うだろう。『敗戦後論』で200以上の批判をあびながら、持論をまげなかった加藤。そして9.11に直面して「有限性」、さらに現代の保守化に対し「尊皇攘夷」論、憲法第9条の論理と再生を提唱した。やはりこれまで体験し得なかった危機に対し、加藤に考えを聞いて見たいと思うのは良く知る読者として正直な気持ちだろう。しかし、加藤は2年前に鬼籍に入り、我々は嫌が応にもなく、大海に放り出され波間に漂流している。まさに思想の根拠が問われる時、彼の勇気の源泉はどこにあったのか本書が教えてくれる

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