加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』と先行する3冊の本 〜東日本大震災・福島原発事故から遠くに投げられた思考のゆくえ〜

○『人類が永遠に続くのではないとしたら』加藤典洋(新潮社)
 3.11後の世界をどう考え、どう生きるべきか。福島原発事故の衝撃と時代の変化に真摯に対決する評論。難解とされる著者が3年かかって蓄積した思考を遠くに向かって放り投げた。 その一部だけでも400ページを超える大著となった。
 第一次世界大戦ノモンハン事件チェルノブイリとフクシマそれぞれ25年の時間を経て現れた「同じ過ち」を指摘し、原発に関する「無—責任」を著者は保険の引受ができない事態によって示す。「有限性」をキーワードに近代を捉え直し「成長」型の思考からの脱皮を訴える。
 本書の企ては、無限に続く成長を前提とした近代の産業社会の価値観を、福島原発事故のようなもはや誰も責任の取れないリスクによって否定し、「持続可能な地球、社会を支える」考え方、哲学を模索することである。
 その試みは成功しているか否かは、まだわからない。著者自身が「自分の考えたことの全貌が、みえていない」と述べているように途方もない幅と深さを本書は内包している。まだそのさわりを語るのは早すぎる。
 本書が触れている先行する人々の理論は多岐にわたる。「リスク社会」の提唱者であるウルリッヒ・ベック。あるいはD・メドウズらによるローマクラブの報告書「成長の限界」。社会学者の見田宗介。思想家の吉本隆明ホッブスマルクスフロイト、ハイデッカー、リースマン、ミッシェル・フーコージョルジュ・バタイユボードリヤール、ジョルジュ・アガンベンら。さらに柄谷行人中沢新一竹田青嗣、星野芳郎、松岡正剛、三木成人、水野和夫、、宮台真司大澤真幸など日本人も多数いる。簡単には参考文献を読むことはできない。すでに加藤の本書に先行する3冊(死に神に吹き飛ばされる、ふたつの講演、吉本隆明が僕たちに遺したもの)を読んでいたから、見田の「現代社会の理論」と「社会学入門」を読んだ。ベックの「危険社会」も完全には読んでおらず、吉本の「アフリカ的段階について」もまったく読んでいない。
 フーコーバタイユなどの現代フランス思想なども本当のところはわかっていない。著者が本書を書くために読み込んだ膨大な知識の渉猟にただ驚かされるのだ。2014年6月25日、定価2484円


○『3.11死に神に突き飛ばされる』加藤典洋岩波書店
 幾多の原発本が出版され、待ってましたとばかり、持論を展開する内容が多い中、文芸評論家の著者が3.11に直面し、段階的な「脱原発」という選択をするまでの思考過程がたどれる好著。あの日まで生死に関わる問題としてあまり考えこなかった多くの日本人にとって説得力ある情報発信になっている。
 原子力を軍事転換可能な「抑制技術」として存在させる「核燃料リサイクル」の放棄、つまりプルトニウムを所有しないという日本の選択を提起しているのがこの本の核心だ。
 本書は「死に神に吹き飛ばされる」と題された10編のエッセイと書き下ろしによる「祈念と国策」という評論で構成されている。読みどころは、やはり後半の論考にあり、敗戦のきっかけとなった原爆投下と、戦後の国策としての原発推進核燃料サイクル、そして核武装可能な国家像を結ぶ流れが今回の福島原発事故によって一挙に見えてくる。
 「あとがき」にあるように加藤氏が「アメリカの影」から「敗戦後論」で展開してきた問題意識がいよいよ具体論として浮かび上がってきたとも言える。注として収録されたメディア論も出色で、今回の原発災害報道で期待に応えられなかった大メディアを痛烈に批判し、既得権益複合体から脱するための自己変革を求めている。
 本書に出てくる幾つかのキーワードもコメント(この本から学び、感じたこと)を書き出してみた。

  • 技術抑止(例えば核兵器は持たないが、核兵器を製造する技術的、経済的潜在力は保持することに、一つの抑止力を認める)
  • 原子力の平和利用(原発の路線転換、自主開発を放棄し米国からの輸入を選択)
  • 原子力の軍事利用(実際に日本の為政者が可能性として留保)
  • 原爆犠牲者の祈り(原子力平和利用に託された思い)
  • 段階的な「脱原発」(加藤氏の結論、不勉強から始めて思考を積み重ねていった)
  • 核燃料リサイクルの放棄(核兵器の原料になるプルトニウムの否定)
  • 吉本の技術論(原則として科学技術に対する思想は受け継ぐが、原則だけでは対処不可能な場所に3.11以降の日本社会が来ている)
  • 寺島、立花の原発容認(その背景にあるのは核兵器の取得への野望、地政学的な見地からのパワーオブバランスの思考が透けて見える)
  • 成長しない成熟(中国にGDPで追い抜かれ、日本はこれまでの成長ではない方向に進むべき時代を迎え、加藤氏は成長しない成熟という名前で否定的ではなく肯定的に受け止め、進んでいく道を呼びかける)

 本書における著者の結論は珍しく簡潔でわかりやすい。例えば「段階を踏んで脱原発をめざす」「(原子力の平和利用に対する不信の)ポイントの一つは、核燃料サイクルにある」「技術抑止の本質は、核兵器を「使用しない」核抑止戦略」「技術抑止は、軍事利用なのである」「原子力の平和利用はタテマエにずぎす、「技術抑止」の手段と理解されている」「私たちは、脱原発に進むのがよい」2011年11月17日、定価1296円


○『ふたつの講演 戦後思想の射程について』加藤典洋岩波書店
 3.11東日本大震災を契機になにが変わったのか。思想的にその変化をどう捉えるべきかを考える。前著『3.11死神に吹き飛ばされる』の後続というべき内容で、その批評姿勢(考える場)の提示と二つの講演によって戦後思想の検証、3.11後の新たな思想的展望を語る。
 著者が福島の原発事故に対し、若手の批判に答える形で示した思想的な方法は「腰高」(ロマン)と「平常心」(リアリスティック)だった。そして、戦後思想は移入される欧米の先進思想に対するドメスティックな反発があり、3.11後の資本主義社会は「リスク近代」「有限性」という危機に直面し、日本の戦後ではなく、世界を向き合う未来志向の思想が求められていると一気に述べる。
 福島原発事故以来の事態が全く従来とは異なると感じていながら、それに対応する思考の枠組み(世界観)がピンとこない。そういうもどかしさに、一筆書きの鮮やかさですらすらと答える。と言えば軽薄に聞こえるかもしれないが、とても力になる論考だと思う。
 鶴見俊輔吉本隆明に加え、見田宗介、ウルリヒ・ベックの思想を取り入れ、さらにこれまで水と油、天敵とも思われた柄谷行人の最近の論考を非常に高く評価するなど、著者の批評世界はさらに一つ上の段階に達し、新たな展開が期待される、その前触れのような本となっている。2013年1月9日、定価1836円


○『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』加藤典洋高橋源一郎岩波書店
 死に際しマスコミから戦後最大の知識人とか知の巨人とか言われ、最晩年の原発容認発言から顰蹙を買った吉本隆明。毀誉褒貶は長い間発言と続ければ当然ついて回るが、遺されたものをどう考えればよいのか。たくさんの吉本本が出される中で迷ってしまう多くの読者に、思想の根っこにある原初的な方法と数多くの著作に対する体験的な案内を行う。
 吉本よりは下の世代ながら同時代を生きた二人の文学者による講演と対談を通して希有な思想家の一貫性、その根源性がまだ吉本を体験していない人々に向けて平易に語られる。
 ある時点まで吉本の本は読んでいたが、途中で止めた人は多い。高橋源一郎が言っているように、晩年はものすごく多作の人になっていて、構えてしまうととても付いていけない気持ちになった。
 その高橋が『吉本隆明が語る親鸞』について「すごい」と述べ、最初に出会った詩「異数の世界におりていく」と同じ驚きを感じたと語っている。
 また、加藤典洋も『アフリカ的段階について』『母型論』を高く評価し、「世界との直取引」「先端と始原のに方向性」という3.11以降の世界に向き合う武器を晩年の吉本から受け継いだとする。
 原発に対し「廃絶は考えられない」「人類が一度掴んだ科学技術を手放すことはできない」と独自の自然哲学から「擁護」したことに対し、「ついに惚けた」「原発推進派に利用される」など多くの批判を受けた最晩年の吉本に対しても、二人とも、特に加藤は丁寧にその思考の一貫性を解読している。つまり、吉本は決して惚けていないことを確認した上で、高橋は「間違い」を含めた師から弟子への思想の受け渡しを、加藤は過去の自分=吉本の誤謬を明らかにし「脱原発」に向かった理由を自らの言葉で語っている。
 高橋の話で一番印象的なのは「戦争中のどこかで感じた、何か腑に落ちないという感覚を70年以上失わなかった」と吉本の言葉を信じる根拠を述べている。
 対談で高橋は吉本の思考で一番影響を受けたのは「腑に落ちなければだめだ」という「原生的疎外」にもとづいて根源的に物事を掘り下げる方法だと語り、加藤は吉本は「無謬の人」ではなく「誤謬の人」で「間違え、その間違いのうえに立つことでそれを超えて思考を進めてきた」と語り、それが「戦後的な思想の原型」なのだと述べている。2013年5月9日、定価1836円


小括 ひとつの問い答えようとする意志
 加藤は、かつての反核=反原発運動の流れからではなく、3.11フクシマを起点として不勉強を反省し、脱原発だけでなく、「有限性」をキーワードに近代を被ってきた成長型の思考からの脱皮を提示する。
 思考のスタートから現時点の到達までを段階的にチェイシングできるのが、『人類が永遠に続くのではないとしたら』と先行する3冊の本である。
 加藤は最終的にこれまでの近代の読み換えとパラレルワールドとしてある「有限性」の近代の方向性を構想する。その構想は十分にまとまっていないが、一つの問いに対する答えを出そうとする意志が貫かれている。3.11フクシマが突きつけた問い。それに答えるため、遠くまで思考を放り投げ、放物線を描いて戻ってくる問いの重みを測っている。私たちの思考はそこまで行けるのか。吉本は誰でも自分と同じ理解が可能と常々言っていた。そこに至る時間の差があるだけだと。思考の科学性を担保するのは、そういう読者の多様な歩みが加藤の語る「有限性」にたどり着くことであり、その社会意識形成の過程に荷担する醍醐味が一連の著作には感じられる。