ハンナ・アーレント

 ハンナ・アーレントは最近、彼女を主人公にした映画の公開でたいへん話題となり、再び読み直す人も多いと聞く。アーレントは、言うまでもなく『全体主義の起源』の著者で、20世紀を代表する政治哲学者。その思考はハイデッカーの愛弟子として大陸哲学の系譜に属するが、革命や暴力に対する独自の理論を展開したことで知られる。
 中年層に大ヒットしたという映画は、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督で、2012年に公開した114分のドイツ映画。ユダヤ人娘でハイデッカーの若い愛人、ナチによる迫害で収容所を体験、アメリカへの亡命、ナチズムを西欧の歴史の中に位置づけた政治哲学の大著を世に出すなど学者としての成功といった波乱万丈の生涯を描いたものではなく、人道に反する罪で裁かれた元ナチのアイヒマンの裁判前後のことが中心となる。アイヒマンは、ゲシュタポユダヤ人課長を務めた元親衛隊中佐で、1960年逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報機関モサドに誘拐され、1961年イスラエルエルサレム法廷で世界に公開される形でホロコーストの罪で有罪、1962年に56歳で絞首刑にあった。
 アーレントは、ナチの戦争犯罪者に興味を持ち、雑誌「ニューヨーカー」の特派員として裁判を傍聴、1963年に『イエルサレムアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』を発表し、ナチを擁護し、ユダヤ人を批判するものとしてユダヤ人の社会および友人から猛烈な批判を受ける。
 彼女の主張は、アイヒマンは恐ろしく創造性に欠ける人物で「役人」の言い訳を繰り返し、自らの責任にまったく思いを致すことができない。思考しないことによる判断停止にもかかわらず、ユダヤ人の虐殺を仕事とし、史上かつてない悪に荷担した。それをアーレントは「悪の凡庸さ」と名づけ、イスラエルが世界に向けてセットした裁判ショーを排し、誰もが犯しうる悪としてのナチを相対化した。一方で、ナチの組織的なホロコーストが600万人と言われるユダヤ人の虐殺を生んだ背景に、ユダヤ人の協力組織としてユダヤ人評議会を指摘し、それについても歴史の中に位置づけた。
 被害者であるユダヤ人を非難したとしてアーレントは「冷酷」「裏切り者」として激しい批判、拒絶にさらされ、多くの知人、友人を失う。夫のハインリッヒ・ブリッヒャーや親友のメアリー・マッカーシー、助手のロッテ・ケーラー、ユダヤ人の友人ヨナスの妻ローレ以外には誰も訪ねてこなくなり、大学も辞めるよう勧告される。しかし、若い学生たちは彼女を支持し、学生は決して去ることがない。そしてこの映画最大の見せ場である、彼女の8分間にわたる反論が繰り広げられる。
 戦争は虐殺を繰り返す加害者のモラルを低下させるが、暴力を受ける被害者のモラルも低下させ、人間から自由な思考を奪う。彼女はユダヤ民族への愛がないのかと問われ、自分は民族や集団を愛したことはなく、愛の対象は友人だけと答える。アーレントという思想家の生き様を一瞬に切り取り、人間が思考するとは何かを見せてくれる。
 もし最後に食い足りないと感じた人は、アーレントの著作を読んで、自らの思考でトロッタ監督の映像をたどるしかない。簡単にアーレントを知りたい人は、矢野久美子著『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書)を読んで下さい。